Lullaby 4U

管理された機械になりたい

オタクに傘は難しい

・何でみんな平然と傘持ってんの?

雨が降ると皆当然のように傘を差して歩いているが、私はそれが不思議でならない。

朝雨が降っていたわけでもないのに昼から降り出した雨に対応できるというのならば、それはすなわち次の4パターンのどれかであるということである。

 

①家を出る前に天気予報を見ている

②折りたたみ傘を常に持ち運んでいる

③どこかで傘を買った

④誰かの傘に入れてもらっている

 

①はとても私には出来ない。だって朝雨降ってなかったし天気予報見ようなんて思わないじゃん。テレビも持ってないしIphoneをピッと横にスワイプするのも寝ぼけた頭では難しい。小学校の頃は朝の情報番組をダラダラ見ながら登校準備をしていたし、雨が降りそうなら家族の誰かが注意してくれた。中高生の頃は寮に住んでいたから雨が降っていても濡れずに教室まで辿り着くことが出来た。大学生になってついに「能動的に天気予報を確認する」というスキルが必要とされるようになったわけだが、今までの人生でそんなところにパラメータを振ったことがなかった。

②は②で理解できない。というのも私があまり折りたたみ傘の良さを認識できていないからである。まず嵩張るし、それなりに重いし、傘としての性能は微妙だし、何より天性の不器用である私にはあれを折りたたんで袋に入れるのは結構な難儀なのである。濡れた傘が入った袋を持ち帰ってどうしているのかさっぱりわからないのだが、多分何かしら面倒臭いことをしないといけないのだろう。これも却下。

③は私もたまにやるのだが、それでもたまにである。第一、雨が降る度に傘を買っていては不経済である。そして第二に―私にとってはこちらのほうが遥かに重大なのだが―持ち帰った傘が増殖してしまう。そうした過剰な傘を処分するのも面倒臭いのでよほど強い雨でない限り傘を買うこともしない。

④ほどの面の厚さを持ち備えていれば私はこんな文章を書いていないだろう。論外。

結局雨に濡れたところで服と身体を丸洗いしたほうが楽じゃない?というのが私の思うところだ。

・雨、雑踏、秋葉原にて。

そんな訳で大抵の場合私は傘をテイクウィズミーすることに失敗している。

ある日私は秋葉原にいて、その時も急に雨が降り出したのだった。

気がつけば街を行く人がみな傘を開いている。私は当然傘を持っていない。目的は達成していたので足早に駅に向かっていた時、ふと気がついたことがあった。

何となく傘を持っている人の割合が少ない気がする...。

今思うとあれは錯覚だったのではないかと思う。私と同じように傘を差さず俯いて足早に歩く人種が秋葉原にくらい沢山いて欲しいという願望をそこに見たのだろう。

すなわち私の思考はこうだ。

秋葉原にはオタクが多い→秋葉原では社会駄目夫(私のような)や人倫無理子の割合が大きい→秋葉原には私の同類が多い→傘を差す人が少ない(そうであって欲しい)

もちろん私は自分の思考プロセスにすぐに気がついた。多分これは錯覚だ...。

 

急に雨が降り出した時、傘を持っていない人間の顔は2種類に分かれる。

一つは自分の準備の悪さを嘆き、一刻も早く屋内に入ろうとする慌てた顔。

そしてもう一つは固く口を結び、重き荷を負うて遠き道を征かんとするが如き顔である。

前者はサラリーマン風の身なりをした、少し抜けたところのあるような男性に多い気がする。これはまあ仕方がない。

後者こそが社会駄目系オタクの顔である。

天気予報を確認するマメさもなく、折りたたみ傘を用意する周到さもなく、傘を使い捨てる度胸もなく、誰かの傘に入れてもらうほどの人望もない。そんな自らの駄目さ加減を人生における試練か何かのように甘受し、押し黙って歩を進める。そんな顔をしている奴は大体俯き加減でメガネをしていて、一目見ただけでオタクと分かるオーラを発している。

 

改めて辺りを見回してみると、そんな徳川家康系ダメオタクの顔をした人間がそれなりにいる*1。もし我々がもっと古い時代のオタクだったら―つまりポスターをリュックに突っ込んでいるようなテンプレ感満載のオタク*2だったら―もしかすると傘を持ち運ぶ習慣を身に着けていたかもしれない。

私は精々両手で数えられる程度にしか秋葉原に足を運んだことはないが、観光地のようになった駅前の大通りから少し外れたところにあるいかがわしい店の中にそうしたオールドオタクが生存していることを確認している。彼らにとって、大切なポスターのために天気予報をチェックすることは難しかったのだろうか?

もしあと30年早く生まれていたら。でも、そうはならなかった。ならなかったんだよ。だからこの話はここでお終いなんだ。

 

シュレーディンガー発達障害

発達障害という特性についてはここ数年で俄に世に知られるところとなった、と感じている。

私はネットに出回っている「ADHDによくある性質」のほとんどと「ASDによくある性質」の一部に当てはまっている。言わずもがな発達障害スペクトラムであり、実際に医師の診断が下るかどうかはわからない。とりあえずギリギリ社会生活を維持できている(と少なくとも私は思っている)からあったとしてもかなり軽度だろう。

少し前に「自分をADHDだと思い込んでいるただの低スペック人間多すぎでは」というツイートが物議を醸した。今年6月には香山リカ先生が『「発達障害」と言いたがる人たち』(SB新書)という釣りっぽいタイトルの本を出版されている(未読ですが、本人のインタビューや書評から察するに記述自体はグレーゾーンの人間を責めるようなものではないようです)。発達障害の特性に微妙に当てはまっている微妙に生きづらいグレーゾーンの人間にはグレーゾーンなりの苦しみがある。自分のダメさの言い訳の一つや二つくらいいいじゃん求めたって。

 

箱の中に精神科医と私がいる。精神科医は1/2の確率で私に対して「あなたはADHDです」と言い、1/2の確率で「あなたはADHDではありません」と言う。箱の蓋を開けるまでは、すなわち精神科を受診するまでは発達障害である私とそうではない私が重ね合わせの状態にある。

突っ込みどころだらけであることはひとまず措き、とりあえずグレーゾーンである私はこんなふうに考えている。というか、そういうことにしている。

私がいつも濡れ鼠で帰路についているのも発達障害だからかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

ただどちらにせよ―ここで515円出して傘を買うほうが精神科を受診してなんらかの薬剤を処方してもらうよりきっと安上がりだ。そんな風に思って今日私は久しぶりに大学の購買で傘を買って帰った。

急な雨のときの傘とか、いつまでもグズグズと予約しなかったせいで高くなってしまった実家への交通費とか、買ったきり一度も使わなかった手帳とか、期限が切れた公共料金の払込票とか、TSUTAYAレンタルの延滞料とか、本を借りっぱなしにして失った信頼とか。

そういったものの塊にいつか圧殺されるまで、とりあえず箱の蓋は開けないでおこうと思っている。

 

 

 

こういう終わり方にすればとりあえずオチになるかなグフフと思いながら階段を降りていたら足が滑って尾てい骨をしたたかに打ち付けた。めっちゃ痛かった。オタクに二足歩行は難しい。*3

*1:私の通う大学のキャンパス内部や周辺でもよく見かける

*2:この記事を書いている時に調べたのだが、どうやらこのスタイルは『機動戦士ガンダム』シリーズの光線の剣になぞらえてビームサーベルと言うらしい。さらにPixiv百科事典先生によると1992年発売の18禁恋愛ADV『同級生』のプライズマシンのポスター発売後が全盛期だったらしい。いずれの作品も私にとっては名作古典的な作品であり、オタクスタイルに関しても隔世の感を禁じ得ない

*3:本当に痛くてしばらく呻いていたところ綺麗な女性が、いや顔は見ていないからわからないけど多分綺麗な女性が「大丈夫ですか?」と傘を拾ってくれた。私は「ア、アリガトゴザイマス」と言って傘を受け取り、なんでも無かったかのように歩き出した。東京はオタクに優しい

女性が化粧をせずに外に出られる社会になると良いですね(良いのか?) ​

・怒られた話

ある知人女性と話していた時、軽い気持ちで「ブスでもブスなりに胸張って外出たらええやんと思うんよね」と言ったところガチギレされたことがある。

別にその女性の容姿が劣っていると言いたい訳ではない、社会一般の話だと言い訳をしたのだが火に油を注いでしまい、最終的に彼女は少し涙声になっていた。

当時は「女性にこういう主張をしたらこういう反応になるのね、これからはやめとこ」としか思えなかったのだが、流石に今は申し訳ないことをしたなという程度には思えるようになった。

多分私の主張は「働きたくないならニートになればいい」とか「勉強したくないなら受験やめればいい」みたいなものと同じ類のものだったのだろうと思う。

まあ完全に間違っているわけじゃないけど、何も知らない人間にどうこう言われたくない。

自分がいる今、ここに立って戦ってから物を言え、と。

 

・相手は天下の世間様

以降、ブサイクの語を容姿の劣る男性、ブスの語を容姿の劣る女性と定義する。

男子学生、特に男子校の中学生というのは世の中で最も身だしなみなどというものから縁遠い位置に居ることが出来る存在である。

フォーマルな場でない限り寝癖が立ってようが珍妙な服を着ていようがニキビ肌を丸出しにしていようが鼻毛が出ていようがまあちょっと笑われる*1くらいで大した実害はない。

無論周りも似たり寄ったりだからである。

9割の芋集団に1割イケメンがいたところで芋の方が多数派だ。

実際には1割どころかせいぜい2、3%くらいだろう。

 

高校は共学で、多少行動範囲も広がったので少し女性を見る*2機会が増えた。

大学に入学し、上京し、繁華街なども多少歩くようになった。

そこで私は気付いた。

 

男性全体におけるイケメンの比率に比べて女性全体における美人の比率大きすぎない?

男性全体におけるブサイクの比率に比べて女性全体におけるブスの比率小さすぎない?

 

美人とブサイクのカップルというのはそれなりに見かける。

東京では尚更だ。

一方イケメンとブスの組み合わせはほとんど見ない。

というかイケメン自体野良にほとんど存在していない、ように見える。

要はイケメンが少なすぎて美人が過剰状態にあるのだ。

最初は多分同性に対して厳しく異性に対して甘いだけなのだろうと思っていた。

それもあるのかもしれないが―結局の所、ほとんどの女性がパブリックな空間では化粧をしているから、というのがその答えなのだろう。

ブサイクばかりの空間でブサイクで居るのは楽だが、一定以上のレベルが担保された空間でブスでいると何だか惨めな気持ちになる。

容姿に時間を掛けたくない女性にとって化粧というのはある種の枷であり、それを枷たらしめるのは異性の目と同性の目とが渾然となった世間様、と言ったところだろうか。

もし私が女性だったら日々化粧をするたびにフラストレーションを溜めていただろう。

私がブサイクのままでのほほんとしていられるのも世のブサイク諸氏のおかげであり、彼らには足を向けて寝られない。

 

・化粧と軍拡競争は似ている

似ているというのは言い過ぎたかもしれない。間違いなく言い過ぎだ。

せいぜい一つ共通点がある程度だ。

つまり、周囲がやるから何となくやらなきゃいけないし、皆がやると誰かが抜きん出ようとするからどんどんレベルが上がっていく。

みんなでせーのでやめよう、などということが出来るはずもない。

どちらもそれを望む人間が存在し、望まなくとも追従せざるを得ない人間が多数存在するからだ。

こんな無茶苦茶な例えで何が言いたかったかと言うと、そのくらい私には化粧という文化が不毛で逃れ難いものに見えてしまうということだ。

 

化粧をしている人を見ると、なんだか自分が重荷から不当に逃れているような申し訳ない気分になる。

これは言い過ぎたかもしれない。間違いなく言い過ぎだ。

バッチリ化粧を決めている人を見て偉いなあと思ったり、化粧が薄い*3人のほうが見てて気が休まるなあと感じたりする程度だ。

人の顔を正面から見るというのは大抵自分の顔が見られる*4ということである。

化粧が施された顔を見るたびに何の手入れもされていない自らの顔が相対的に立ち現れる。

多分自分の考え過ぎなのだが、何だか気後れしてしまう。

 

そしてきっと―私がもし女性だったとして、化粧は私の自尊心の低さを糊塗してはくれないだろう。

眉を描き、毛穴を隠し、口紅を塗ったところで自分がブスだという思いは消えまい。

そんなもののために鏡を見続けるなどというのは拷問に等しい。

顔の素地だけでなく、化粧の技術でも劣っていることを思い知らされる。

しかしこの血を吐きながら続ける悲しいマラソンを続けなくてはならない。

なんと厳しい世の中であろうか!

 

だからこういうのはどうだろうか。

みんなちがって、みんなブサイク/ブス。これでいこう。

極々少数の、美という才能(ギフト)を持ったイケメンと美人を讃えながら謙虚に生きていこう。

見目麗しき人々が神に愛された人々として権力を独占し、化粧は神による美の分配を乱す悪しき文化として迫害される、そんなユートピア

 

*5

 

 

 

 

 

 

 

*1:高校生の頃くらいまではよくポロシャツと半ズボンで生活していたのだが、そんな服装してるの勝俣くらいやぜと言われて半ズボンを止めた。ファッションに関して何か言われて改めたのは多分これが唯一である

*2:当時の私は目が合うだけでセクハラ認定されると思っていたので視界の端で捉える他に術を持たなかった。なお一説には東京では5秒以上異性を見つめたら好きってことらしい

*3:化粧が薄いか濃いかなど結局私にはわからないのだが

*4:TPSやFPSなんかを遊んでいると、正面に向き合って敵が見える状態になるというのは自分が撃たれ得る状態になるということでもある。カバー地点から顔を出して敵を視界に入れた瞬間スナイプされる度に「ああこれが"他者を見る"ってことなんだなあ」と実感する

*5:それでもやっぱり中島みゆきの「化粧」は名曲ですよね

慈愛という回路が搭載されていない

・別に嫌いじゃないんだけどさ

猫は好きだろうか。犬でもいい。或いは人間の子供。

 

嫌いなどと言えば人でなし扱いされるものトップ3だと言っても過言ではない。別に私は嫌いではない、しかし世間の人々並みに可愛いとも思えない。

有り体に言えば興味が持てない。可愛いでしょ~?などと言われてもわからないとしか言いようがなく、可愛いという感情を何となくエミュレートして話を合わせたり合わせなかったりしている。

 

インターネットの動物画像なんかは別で、正直言って少し苛々する。ただ存在している、それだけの理由であんなにも愛されて拡散していくのは狡いと思ってしまう。

まあ別に被写体の動物やら赤子やらに責任があるわけではないし、苛立つのは寧ろそういう画像を愛でる人たちに対してなのだが、袈裟が憎いせいで坊主まで憎くなってしまう(この使い方は適当なのか?)。

 

大衆の感情が可視化されるこのインターネットという場において動物画像や赤子の行動に対する"アンチ"の少なさは際立っている、様に思う。

5chの生き物苦手板くらいではないだろうか、見たことないけど。虐待したいというほど動物に対して強い感情がある訳ではないが、彼らの気持ちもわからないではない。*1

 

...話が逸れた。とにかく私は犬や猫や子供に対して可愛いとは思うことはほとんどない、少なくともそうした属性に対して可愛いという感情を起こさせるスイッチが搭載されていないらしく、そうしたスイッチを生まれつき持っている人が羨ましい。そういうスイッチが搭載されていることを前提としている社会が薄っすらと憎い。ここは元から楽しい地獄だ。

 

 

 ・可愛いという感情に関する考察

一応ここで少しだけ可愛いという語を腑分けしておこう。ここで辞書を引くのも(エセ)インテリ仕草っぽいのでそういうことはしないしそう決めた以上何らかの文献にあたるのも癪なのでしていないのだが、無い脳味噌から「可愛い」が使われる文脈を並べて少し考えてみることにした。

 

対象は人間だったり動物だったり、洋服だったり音楽だったりするのだが、共通する属性としては

小さい/弱い/繊細/優しい/美しい/しなやか/無害

等があるだろうか。

ぶっちゃけ"女性的"*2*3と言われる性質とかなり被っている、と思う。ここでフェミニズム回路がぐるぐる回転する人も多いと思うがエクスキューズする気は特に無い。

 

問題はそうした属性(≒「女性的」という語で総称される性質)を持つ対象に対して抱く感情がいかなるものであるかであって、これは

・慈愛

・劣情

・賛美/憧れ

あたりが主なのではないか。

 

性欲というスイッチは僕も持っている*4。美しいと感じたものを善いものだと思う気持ちもあるし、可愛くなりたいという感情も容易く理解できる。

 

慈愛の心だけがなんだかうまく発生しない。赤子に対して人権を保証しなきゃいけないなあという義務感は発生するし、人間でなくてもまああんまり生命を無碍にすべきではないという倫理観もなくはない。

小さいもの、弱いものがそのために不利益を被っているとして、そのマイナスをゼロにしてあげたいという気持ちはわかる。要は可哀想だから助けてやりたい、ということだ。しかしそれは決して「可愛い」と思ったからではない、と思う。

 

弱者が弱者なりに気を張って気にせずに生きていこうとするのも、或いはその弱みを武器として媚を売ることで利益を得ようというのもよい。いずれも弱者の戦いであり、美しい。

優しい飼い主のもとですくすくと育った毛並みの良い子猫のカメラ目線の笑顔に関心は持てないけれど、汚い野良猫が蹲っているのは美しいな、と思う。*5

 

天然の、無邪気な、それでいてそこにいるだけで周囲に対して媚を売っているような存在が受け付けないのだと思う。それらは戦うこと無く愛情やその他プラスのものを受け取っており、そのことが許せない。可愛い猫や犬や子供が存在する一方で、沢山の可愛くない猫や犬や子供が存在するという不公平があり、可愛い存在にも可愛い存在を持て囃す人々にもせめてこの不公平に自覚的であって欲しい、という願望が強く自分の中にある。

 

 

・それなりに切実な問題として

私が「子供が可愛いと思えない、だからまともな父親になれる気がしないので結婚したくない」と言うと、母は自分も未だに他人の子供は可愛いと思えないけど自分の子供はなんだかんだ言って可愛いから大丈夫だ、と言う。

 

しかし実際に痛ましい児童虐待が起きているということは、子供が生まれたけれど可愛くもなんともないという人々は存在するのだろう。実際に子供を虐待するかどうかにかかわらず、子供を可愛いと思えない親というのは幸せなものではないだろう。そう考えると、自分のように慈愛回路がセットされていない人間にとって子供を持つということはかなりのギャンブルなのではないか。しかもその賭けに失敗したとき、その代償は子供にも降りかかる。

 

今の所私は結婚したいとも子供が欲しいとも思えないのだが、帰省するたび早く結婚しろ子供を持てと言われる私にとってこの慈愛回路問題はそれなりに現実的な問題なのである。

いたいけな子供や猫の画像に関するツイートが拡散され、そのツリーに多くのリプライがぶら下がっていくたびに、一人の芋虫が自らの不具を嘆くのだ。

 

*1:

似たような理由で選挙も嫌いです。様々な意見が飛び交うこの言論空間において、選挙に行くことだけ右も左も絶対に正しいことかのように扱うのが気に食わない。

そりゃマクロ的に見れば一人ひとりが国政への参加意識を持って選挙に行くべきだ、それが民主主義だってのはわかるんだけど、僕個人の視点から見れば自分が選挙に行こうが行くまいが変わらないじゃないかと思ってしまうんですよね。

とにかく、この雑駁としたインターネットの上で、男も女も賢者も馬鹿も老人も若者も口を揃えて持て囃すようなものが大体嫌いです。わかる人もいるだろうし、わからない人もいるだろうと思います。わかるようでわからない人も。

*2:鍵括弧だと両手をチョキの形にして指をちょんちょんしている人間へのダメ日本人特有の何とも言えない感情を表現できませんよね

*3:ロリやショタを導入すると随所にバグが起きそうだなあと思ったので本文では書かなかったのですが、一部の小児性愛者は小児に対してセックスに由来する性質から解き放たれた人格を望んでいるのかもしれないと思っています。そうした場合「可愛い」という語を使うのかどうかはわかりませんが

*4:この点に関しても多少拗らせがあるので、そのうちそれについても書くことがあるかもしれない

*5:結局リンダリンダのアレみたいな話になってしまった。僕の今の一押しVtuberであるところの卯月コウが「ブルーハーツを歌ってるのは陽キャだけどブルーハーツの歌詞を噛み締めてるのは陰キャ」と言ってて、こいつ本当にわかってんなと思った